On your heartbeat

彼女は傍若無人だったが、わたしを虐待するようなことはなかった。

朝わたしの腹をふみふみし、鼻を舐め、ご飯を催促してくる。どんなに眠くても起こしにくる。

ソファーに座っていると、膝の上に乗って眠る。寝そべっていると腹の上。

体重は軽い方だったけれど、足で腹を踏まれればかなり押し込まれて唸る。

一時間でも動かなければ平気で眠っている。

自分より何倍も速い鼓動を感じながら、この小さい生き物はなんて無防備なんだろうとよく思った。

でも、彼女を裏切ったりした事はなかったと思う。何か不調を訴えれば病院に連れて行き、おやつをやり、ごはんと水を替え、トイレを掃除し、おもちゃで遊んでやり、追いかけて走らせ。

だからきっと信じていたのだと思う。このひとは大丈夫と。

彼女との距離感を、今から思えば不思議に思う。あの信頼と共に突き放したところが魅力なのだろうと、ねこを好きなひとの気持ちがよく分かる。

帰って来ても、振り向きもせず眠っていたり、かと思えばドアの向こうで待っていたり。

この機嫌の変化により態度が全く違うのも、慣れればどうって事ないのだった。

 

あのねこのようになりたいなと、今よく思うのだった。

突き放しても傷つけない。傍若無人でも相手を納得させるあの距離感を、ひととひとの間に実現できないのだろうか。

それは長く付き合っていく中で積み上げたものでもあると思うのだけれど、やはりねことは何か定義できない魅惑のようなものがあるのだろうか。

下はBryan Ferry 「Avonmore」、勝手にシドバレッドさんの訳。やっぱりうまいなあ。

始まりの頃とおなじように
暗闇と雨が降ってくる前に
ぼくはきみの鼓動の上に頭を横たえる
魂の短剣を覆うように
落雷と雨をくぐりぬけても
終わらない恋を手に入れたい
でもそんな素振りをしてみせてもしょうがない
ぼくは二度と恋に落ちることはないだろう
ある朝目をさまして
そこが目をそむけたくなるような世界だったとしたら?
楽しい日々が悲しみ変わるとしたら?
自分の場所を誰かに奪われてしまったら?
二人、すがりついていよう いっしょに 月明かりの下で
河を燃やして黄金に変えよう
毎分を毎時間をすべて数えよう
きみの心が冷たくなるまで

 

明日、また何が起こるか分からない。

もっともっとゆらゆら揺れて、柳のように風にたゆたいながら、でも根はどっしり構えているあのしなやかさがほしい。

足一本、腕一本、なくなっても絵は描けると思えるように。

 

食べることの力と器の用途

先日、数度お会いした方と再び食事をしたのだけれど、そこでかなりのカルチャーショックを受けてしまった。

とてもよく食べる。

なんていうのか、食べる事に能動的、積極的、というのだろうか。

これほどに食べる人は初めてかなというくらい食べる。

以前お会いした時も、よく食べる人だなとは思っていたのだけれど、初めて自分の作ったものをサーブして、改めて解ったのだった。

一番大きな理由は身体という器の大きさの違いなのだろう。

決して大きな身体という訳でもないのだけれど、仕事もプライベートも身体を使うので、自然に身体が食を欲するということなのだろう。

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これはベルリンKPMで食べたケーキなのだけれど、1ピースがとても大きい。

日本のケーキの倍はあるだろうか。この甘さでこの大きさだと、それを受容する器も大きいということだ。

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これはベルリンの空港で食べたアップフェルシュニッツェル。

ご覧の通りとても大きいのだけれど、ほとんどが林檎で甘さは少なく、このアングレーズソースをかけて食べて丁度いいようになっている。

たくさんなのだけれど、甘さはこの大きさに合うように薄め、なのだ。

ただ、やはり日本人のわたしにとっては大きめだった。

さすがに身体が違うのだろう。

 

わたしは今、ひとりで暮らしているので、味や量の基準が全て自分仕様になっている。

でも、たまにはあらゆるひとの食べるシチュエーションを考えて食事を作る事の大切さを、彼と食事することで改めて考えてしまった。

器は様々な人の手で使われ、その用途は数え切れないのだ。

 

「Doily」を描く時に、器のセレクトに悩み相談したのは、子供を育て上げた主婦の方だった。

どのような器をたくさん使うのか、どういう時にどういうものを必要とするのか、いろいろと教えていただいた。

その時にも何となくひっかかっていたのが、今の問題だった。

「自分でも料理を作って様々に経験してみるものではないだろうか」と。

 

これは、イギリスのホテルで食べたコッドのフライであるが、フィッシュ&チップスがワンプレートにのってきた。

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まあこのくらいのものなら当たり前のようだが、今の食事は一人分がワンプレート、という事が多いのだけど、昔の日本の食卓は、ひとつのボウルや鉢に盛られていて、取り分けて食べる、という形が殆どだった、という事を、彼と食事した時に思い出したのだった。

わたしは結婚して長く、前夫の希望から一人分をよそった鉢の食事を作ってきたので、そんな事などすっかり忘れていたのだけれど、この食事の時に「家では(実家では)ひとつのお皿にひとつの料理が盛られていて、それぞれが取って食べる」と彼が言ったので、はっとしたのだった。

あー…そういえば、そんな事が日本の食卓にはあったなあ…と。

「Doily」を描き始めた頃、スープ皿に何枚か描いたのは、鉢としてのお皿を作るためだった。

自分ひとりの料理を盛るにも丁度よく、何か大皿に盛りたいときにも使える皿を、と思ったからだった。

何か、この食事でいろんなことを発見し、教わって、課題も出来た気がした。

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ワンプレートもいい。一人分の鉢に分けるのもいいだろう。

でも、取り分けて食べるという、何処かあたたかな感じのする食卓を考えながら、描く器があってもいいな、と改めて思ったのだった。

感無量

 

今年は、わたしにとってとても意味深い年になりました。

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このねずみのパテ・シュール・パテの実験をしてから、実はもうだいぶ経つんですけど(二年くらいかな?原画はセーブルのものを模写しました)

大きな作品をいろいろ作り、それを実際に見ていただく機会に恵まれて、これまでしてきたことが、思いのほか多くの方々に受け入れられるという事が、とても大きな発見でございました。

 

 

まだ絵をつけるまえの皿です。

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これもいい皿を持っていたものだなあと、やっぱり絵と皿の相性は大きいなとしみじみ思ったこの平戸の皿でした。

 

 

五角形を模様に取り入れようと思ったのは、「Doily」をお重に描いたときでした。

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とても描きにくい(配置が難しい)モチーフなので、これだけを題材にして描いてみたいなと思い始めて、このペンタゴンは生まれました。

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蒔絵を自分風の表現にする、というこのお題と重ねて、壺に描きました。

実は、この壺が一番難しかったんです。

これには台があるのですが、その形状が絵を置くのにとても難しい。

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今年は絵に対して悩んだし、自分の身体の事もありましたので、ホントに描ききれるのかな?と随分不安だったのですけれど、周りの方々の支えがありまして、何とか形にすることが出来ました。

代表作となる「受胎告知」を発表し、これからの方向を形付ける上で、作家としてとても重要な年となりました。

アトリエプチリスの岩井小百合先生をはじめ、回りの方々の励ましの言葉があり、ここまで来る事が出来て、本当に感無量でございます。関係者各位、そしてここまで支えてくださった友人にお礼申し上げます。

Bleu et bleu を立ち上げた三年前には、何も見えない状態で、自分が何をしていけばいいのかすら見えていませんでしたが、陶磁器の世界で、自分の役割みたいなものを再認 識する事が出来、また、日本全国におられる同じ陶磁器の世界で活躍される方々の中で、わたしもその責任を果たしていければいいなと、思うに至りました。

これからはもっともっと、陶磁器の研究に切磋琢磨してまいりますので、来年もよろしくお願い申し上げます。

Blue et bleu NORIKO SAKAI

 

 

どこまでも、描く

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創画会の小池一範氏が亡くなったと、今朝連絡があった。

 

小池さんは高校時代からわたしの通っていた制作室というアトリエの先生だった。

デッサンを教わっていたのだけれど、日本画のひとの絵はストレートで分かりやすい。

この絵はその頃描いたものだけれど、これを見て笑っていた。

「飲んだ事もないのに、なんでこんなに旨そうに描けるんや」

 

習い始めた頃は、風変わりなその雰囲気がおもしろくて、いつも擦り切れた靴を履いて、天然パーマの髪に吊るしのジャケット、何とも研究者のようで不思議なひとだった。

先生の父親というひとがまた変わっていて、「絵描きたるもの、絵しか描かなくていい」という考えの持ち主で、他で稼ぐな、というある意味すごいスパルタな方だったらしい(笑)。

 

「もっと自由に線を引いてごらん。ひかりと影、こんな風に見えてるか?もっと感じたままに描いてみ。」

デッサンの基礎があるのだから、絵としてその中に何を描きこむのか、そこに何を感じて描いているのか、鉛筆に反映していきなさい、と言われた。

小池さんがわたしの絵に入れた鉛筆は、なんともふわふわした色と形だった。

鉛筆にも様々な色や表情があって、それをもっともっと使え、と。

この考え方は、やはり日本画だった。

小池さんに出会ってから、わたしの絵はかなり変わった。

神経質だった素描が、だんだん大らかになっていって、自由度が増していった。

色彩構成も、くすんだ色ばかりだったのが、ヴィヴィッドな色を要所要所に使うようになって、色の深みが増していった。

 

一度、小池さんに案内してもらって、制作室の仲間と創画会の絵を見に行った事があった。

初めて見た小池さんの絵は、とても緩やかな空気の下町の風景だった。

町の中のそこここのいろんな匂いがしてきそうな、やさしい絵だった。

家から流れる煮物の匂い、ちょっと湿った土の入った鉢植え、乾いた風に乗った雑草の匂い。

 

小嶋先生をとても尊敬していて、いつかあんな表現が出来るようになりたい、と言っていたけれど、本当に抽象の表現へと変化して行った。

色彩は相変わらず柔らかな色使いだけれど、描いているものがだんだん変化していったような気がする。

内へ内へ、自分の内面へと向いているような、こころの絵。

 

小池さんが最期に何を見ていたのか、今となっては知る由もないけれど、いつまでも先生はわたしの中で、絵描きとして目指すところであるのには違いないのだった。

そのひとの生き様そのものが、何よりの手本であるというのは、昔からのわたしの信念である。

あの一見さまようような瞳の中に、何ものも見逃さない鋭い光を見たひとは、決してわたしだけではないはずである。

わたしも今日と云う日に、これからどうして生きていくのか少し見えてきて、先生の死去により、「描く」という事が、より明確な目的になったのだった。

 

カテゴリー: art

パテ・シュール・パテの挑戦

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この「受胎告知」を描くにあたっては、いろいろ訳もあったのだけれど、パテ・シュール・パテをやると決めたからにはやれる事はやってみようと、わたしにとってはかなり飛躍した挑戦だった。

本来は素焼きの素地の上に粘土で塗り重ねていく技なのだけれど、それを上絵の技術としてエナメルでやってみようというもの。

イングレーズもそれなりに扱えるようになってきたのだし、それを使って本格的な絵を描き始めてもいいのではないだろうかと、それならこれまで考えていた事をここに入れてみようかと、イギリスで見てきた事をかなり入れ込んだ。

 

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これは、ストーク・オン・トレントの陶磁器博物館にあったエナメル画である。

棚に平置きで置いてあったため、画像が横にひずんでいる。

これを見た時、しばらくそこから動けなかった。

ここまで出来るのか。

 

この微妙な陰影と空気感に少しでも近づけるようにと、ずっと見ていたのだけれど、なかなか難しい。

これを描けるようになるまでには、また更に画材を研究しなければならないと、今回描いてみて様々な問題点が挙がって来た。

グレーズ感、とでも言うのか、この半透明でつるつるした感じを出すには、いろいろな改良をしなければならない。

エナメルはざらざらしていて、粘着性の強い素材である。

今回これを削ってみて分かったのだけれど、思いの他粘って硬い。

その点素材としてはとてもいいものだと思うのだけれど、何せ描きにくい。

短期間で様々な実験をする時間がなかったので、今回はエナメルのみで描いたのだけれど、これを更に描きやすく透明感を出す課題をこれから進めていく。

苦労したのは、中間色。

白いところは勝手に白くなっていくのだけれど、全くの闇でもなく、また明るくもない場所を描くのが難しい。

白黒逆に描くというのは、こんなに難しいのかと少し辟易した。

絵の具なら未だしもこのエナメルという何とも筆に馴染まない素材で。

エナメルと白黒逆。これに翻弄された制作だった。

まだまだこの試行錯誤は続く。

 

模倣に模写。

これらを組み合わせて新しいものを作る。

伝統的な表現を学び、それらを更に昇華させていく事も、芸術の目的のひとつである。

 

受胎告知 <旧約聖書>

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Immaculata Conceptio Beatae Virginis Mariae」

Bartolomé Esteban Perez Murillo

イングレーズ瑠璃染め、エナメル、金彩

 

原画

~無原罪の御宿り~

(旧約聖書:「ルカによる福音書」から)

バルトロメ・エステバン・ペレス・ムリーリョ

旧約聖書では 元々罪のないマリアであるから子供が宿った

という捉え方のようです

旧約と新約 それぞれの解釈が興味深い

「受胎告知」

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パテ・シュール・パテの模倣という事で

エナメルを使い 瑠璃染めの上に描写

初めてお皿の上の焼成後の絵の具を

電動工具で削るという経験をしました

上絵師でありながら 元来彫刻家である事も

またひしひしと実感できた

充実した制作でした

 

10月15日~19日

奈良県文化会館

アトリエプチリス陶磁器上絵展にて展示します

 

第五回 アトリエプチリス展に参加します

第5回 アトリエプチリス展

2014年10月15日~19日

奈良県文化会館 2F E室

{D12075B9-08F6-428C-84A3-059543F9338D:01}

 

展示時間

15日 11時~17時
16~18日 10時~17時
19日 10時~16時

奈良県文化会館 奈良市登大路6-2 0742-23-8921

http://www.pref.nara.jp/1717.htm

展覧会のお問い合わせ:白磁屋 0120-15-8928

info@hakujiya.com

絵の具という素材

 

このところ、イングレーズの実験をしてるので、ついでにDoilyのボウルを描いて一緒に焼いている。

 

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だんだん手の込んでいくDoilyも、いろいろやってみていいのではないかと思い始める。

 

この図案はこうでなければっていうのも、どんどんほどいていって、もっと可能性を出して行けたらいいなと思うようになってきた。

 

それと、今は上絵という手法を取っているけれど、元来のわたしの制作の方向性を考える機会となった「水と油」を描いて思ったのは、自分の出来ることをもっと掘り下げてみようという事だった。

 

立体をしていた事、素材をいろいろ触った事、そして他の表現方法をいろいろ通して、それを上絵に活かしていくことが、もっと自分自身にとって納得のいく作品になるのではと思う。

 

わたしのしていることは、上絵の基本的なものとは大きく離れているけれど、上絵の技術なしでは出来ない事でもあると思う。

 

2年前、渡欧した時に絵の具を買いに行って、その時感じたのは、「絵の具」というものを、ひとつの「素材」として考えられないだろうか、という事だった。

 

そして、上絵も素材と素材の組み合わせで作っていく事が出来ないだろうかという事だった。

 

今度の作品は、その第一歩のものになるのだろうと思う。

 

新しい上絵の可能性を、この手でもっともっと拡げていきたいと、あの深い眠りに入った陶磁器の町、ストーク・オン・トレントで深く深く思ったのだった。

 

わたしの手で出来る事など、たかが知れているかもしれないけれど、それでも何か出来る事があるのではないだろうかと、寒く凍った池の前で、誰も住まないこの町がいつかまた賑わうような日が来るのを、夢見ずにはいられないのだった。

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遠い瞳で

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この実験をし始めて どのくらい経つんだろう

今描いているものが出来たら また次の習作へ進む

何のために描いているのか 時々見えなくなる

あまりにも寒々とした絵の中で 何を生み出すのか

何を表わすのか

 

形にしなければ 見えてこない この世界で

今している事が 次につながればいい

今の習作を乗り越えたら 少し楽になるかな

 

新しい命が 見えるかな

 

 

 

BABY COLOR DOILY

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BABY COLORの「DOILY」をご注文いただきました。

これは実はとても苦労しました(笑)。

この色合いで果たしてDOILYが上手く見せられるだろうか…?

でも、かわいく優しい色合いのDOILYが出来ました。

依頼人に感謝ですw

ありがとうございました。