先日、数度お会いした方と再び食事をしたのだけれど、そこでかなりのカルチャーショックを受けてしまった。
とてもよく食べる。
なんていうのか、食べる事に能動的、積極的、というのだろうか。
これほどに食べる人は初めてかなというくらい食べる。
以前お会いした時も、よく食べる人だなとは思っていたのだけれど、初めて自分の作ったものをサーブして、改めて解ったのだった。
一番大きな理由は身体という器の大きさの違いなのだろう。
決して大きな身体という訳でもないのだけれど、仕事もプライベートも身体を使うので、自然に身体が食を欲するということなのだろう。
これはベルリンKPMで食べたケーキなのだけれど、1ピースがとても大きい。
日本のケーキの倍はあるだろうか。この甘さでこの大きさだと、それを受容する器も大きいということだ。
これはベルリンの空港で食べたアップフェルシュニッツェル。
ご覧の通りとても大きいのだけれど、ほとんどが林檎で甘さは少なく、このアングレーズソースをかけて食べて丁度いいようになっている。
たくさんなのだけれど、甘さはこの大きさに合うように薄め、なのだ。
ただ、やはり日本人のわたしにとっては大きめだった。
さすがに身体が違うのだろう。
わたしは今、ひとりで暮らしているので、味や量の基準が全て自分仕様になっている。
でも、たまにはあらゆるひとの食べるシチュエーションを考えて食事を作る事の大切さを、彼と食事することで改めて考えてしまった。
器は様々な人の手で使われ、その用途は数え切れないのだ。
「Doily」を描く時に、器のセレクトに悩み相談したのは、子供を育て上げた主婦の方だった。
どのような器をたくさん使うのか、どういう時にどういうものを必要とするのか、いろいろと教えていただいた。
その時にも何となくひっかかっていたのが、今の問題だった。
「自分でも料理を作って様々に経験してみるものではないだろうか」と。
これは、イギリスのホテルで食べたコッドのフライであるが、フィッシュ&チップスがワンプレートにのってきた。
まあこのくらいのものなら当たり前のようだが、今の食事は一人分がワンプレート、という事が多いのだけど、昔の日本の食卓は、ひとつのボウルや鉢に盛られていて、取り分けて食べる、という形が殆どだった、という事を、彼と食事した時に思い出したのだった。
わたしは結婚して長く、前夫の希望から一人分をよそった鉢の食事を作ってきたので、そんな事などすっかり忘れていたのだけれど、この食事の時に「家では(実家では)ひとつのお皿にひとつの料理が盛られていて、それぞれが取って食べる」と彼が言ったので、はっとしたのだった。
あー…そういえば、そんな事が日本の食卓にはあったなあ…と。
「Doily」を描き始めた頃、スープ皿に何枚か描いたのは、鉢としてのお皿を作るためだった。
自分ひとりの料理を盛るにも丁度よく、何か大皿に盛りたいときにも使える皿を、と思ったからだった。
何か、この食事でいろんなことを発見し、教わって、課題も出来た気がした。
ワンプレートもいい。一人分の鉢に分けるのもいいだろう。
でも、取り分けて食べるという、何処かあたたかな感じのする食卓を考えながら、描く器があってもいいな、と改めて思ったのだった。



