「Doily」の生みの親である、Foyerさんに凱旋したお皿。
これは、編んでいただいた全てのドイリーを入れた、異例のお皿。
これを描いた時も思ったのだけれど、サインとしても使えるけれど、器として機能するように描いた。
「何かを入れる」ための「器」である、という事が、まず大前提にある、わたしの上絵。
そこが西洋陶磁上絵の世界とは真逆の場所にある。
西洋陶磁の世界は、どうしても装飾としての役割が大きい。
ヴィクトリア時代にその貴族が使っていたと思うような、アンティークはもちろん好きだし、それから入った器の世界、飾っていて綺麗なものもあっていいと思うし、わたしも時にそういうものも描く。
けれど、基本的にわたしの器は、「使って欲しい」。
お譲りする際、まずそれをお願いする。
今の器は使うためのものだけれど、模写をしていた頃のものをお譲りした時、最初にお願いしたのがその事だった。
「使ってください」
すごく勝手である(笑)。
でも、器は何か入れてなんぼだと思うのだ。
使ってそれが活きてくるのが、器の本来の持つ命だと思う。
今日、ふと思った。
どう描いても、何かを入れる事を常に考えて描いている、と。
何かを入れ、そのものと共振して存在する器を描いていきたい。
